私は「鬼滅の刃」を見ていないし、当面見るつもりもない。その意味では語る視覚はない。さいわいにこの著者が「忠臣蔵」との対比においてコメントしてくれている。こちらのほうは細部のことは忘れたが多少はわかる。
問題はなぜ「忠臣蔵」がうけるのかということである。ちなみに落語では「忠臣蔵」は基本的に扱わないそうである。講談や歌舞伎での美談として扱われてきたという経緯があることに注目すべきだと思う。
以下の叙述は例えば2.26の反乱軍兵士達にも見られる心的傾向かも知れないではないだろうか?
「加藤(周一)は『忠臣蔵』の人気の秘密について、「私的なもの」の「公的なもの」への挑戦が、「『忠義』の名において、すなわちあたえられた世界の構造の枠組みのなかで、行われたからこそ、「四十七士」を支持したに違いない」と説明している。この日本人の「あたえられた世界の構造の枠組み」を超えようとしない傾向を、日本の歴史を貫く傾向だと加藤はくり返し指摘した。
しかしそれとは逆に、「あたえられた世界の構造の枠組み」を時代の状況に適応するように変化させる役割を、国民に求める制度設計になっているのが近代的な社会である。この矛盾を越えられない限り、変化する世界の中で日本が取り残されることが続くだろう。
「理屈を排除した一体感」への過剰な執着は断念されるべきである。その代わりに近代化以降の世界で標準となっている「基本的人権」や「法の支配」といった理念に真剣にコミットした「個人」が、永続した価値や理念を体現すべく、近代的な制度の下で再び団結するような組織や集団の構築が目指されるべきである。」